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      クロニック・ラブ

      こんにちは。行政書士の遠藤です。

      無償労働を含む仕事が増えすぎてしまい、2025年の中小企業診断士一次試験については参加を見送りすることに。今年受けるのは秋の特定行政書士試験くらいでしょうか。

      ここ一週間、ひょんなことから複数の大人に相談することがあり、全員から見事に「自信の無さ」を指摘されることがありました。うっすら分かっていたことなのですが、自分でも理解が進んだからこそ(受け入れられる状態だからこそ)教えてくれたのだと思っています。

      昨日の夜は、長電話に付き合わせちゃったね
      本当はもっと話したかったけど、君を休ませなきゃって思ったんだ
      でも大丈夫、僕たちの心は距離なんて感じたことないから
      君が自分の夢にもっと時間と情熱を注ぐべきだって、わかってるよ
      たとえそれが、僕と離れることを意味するとしても
      僕はいつまでも、その時が来るのを待っているから
      だから今、君を送り出すよ

      中谷美紀 クロニック・ラブより(英語の歌詞を意訳)

      TBSドラマ「ケイゾク」のOP曲だった、中谷美紀のクロニック・ラブ。

      ことばというのは不思議なもので、額面取りに意味を理解することはできても、心で受け止めるためには身体を経由する(傷つきやすく壊れやすい心と生身をを介在させる)必要があると思うんです。頭でっかちな私は理解こそすれ、受け止める作業を普段からおざなりにているわけですが、身も心も疲れている時に聴くと、、あら不思議。心に響くというか、重くのしかかるというか笑。

      相手が自分のいる場所から離れていくとき、「それはあなたにとって良い選択だし、私も精一杯送り出すからね」というセリフには、現状を変える力はありません。装飾することはあっても、結果を変えることはできない。この歌詞に出てくる話し手の行動は、「休ませる」「待っている」「送り出す」の3つ。いずれも消極的です。

      「stay a little longer」とか「don’t leave me」ってもし言えていたら。相手もそのセリフを求めていたとしたら。もし、なんてことはないし、実際に何度も言った末の結末なんだろうけど。

      さらに2番のメロディーではこんな歌詞が続きます。

      聞こえる…?そこにいるのは、あなたなの?
      昨日の夜より、今日のほうがずっと心が穏やかだよ
      あなたがここにいて、ぎゅっと抱きしめてくれるってわかるから
      あなたが奏でる音に、私の心はどこまでもついていく
      たとえ二人のリズムが、少しだけずれていたとしても
      もしあなたが、私から離れなくちゃいけないとしても
      私はいつまでも、その時が来るのを待っているから
      だから今、君を送り出すよ

      中谷美紀 クロニック・ラブより(英語の歌詞を意訳)

      ただただ、切ない。

      けれど、これは立派な「祝詞」だと思うんですよね。「私はあなたと一緒にいたい」というセリフの変化球としての。クロニック・ラブの歌詞と自分を重ね合わせて感慨に浸りたいところですが、私には決定的にいけないところがある。

      これはほとんどの人間関係において言えることですが、「相手」にとっては、常に「自分」と、「自分以外の誰か」を選択することができます。誰と仕事をするか、誰と付き合うか、誰とご飯を食べるか、誰と一緒にいるか、誰と一緒にお墓に入るか。

      私の「自信の無さ」がどのように表出しているかと言えば、仕事のパートナーであれ、クライアントであれ、家族であれ、誰に対しても常に「私以外の選択肢」を私自身が用意している、という形で表れています。卑怯なことに私は相手に選択を迫っているのですね。相手を自由の刑に処している。

      リプレイサブル(交換可能)な存在としての「私」、という認識自体が一種の自傷行為ですが、その認識が相手をも傷つけていることを私は想像していなかったのです。「私じゃなくてもいいんじゃないですか、なんで私なんですか」っていう思想は、私を選んでくれたその人を、傷つけている。数多のなかから交換不可能な存在としての自分を見つけてくれたその人を、一緒に過ごした時間の長さの分だけ、傷つけている。

      私は「ひとつの商品」であり、ほかの商品より安いです。なんなら返品も可能です。

      このような自己認識が幼少期における愛情不足に原因があったとしても今更どうにもならないし、回避性パーソナリティーの現れだったとしても、薬でどうにかなるものでもない。そして行政書士という本業は文字通り「私自身が商品」であり、悲しいかな、いくら仕事に没頭したところでそうした思想が改善されることもなさそうです。

      ひとつ、先輩にいただいたアドバイスがあります。とても単純なものですが、「自分を大切にしたほうがいい」。具体的に言えば、自分の優先順位を上げなさい、ということです。

      今の私の優先順位は、

      ① 相手にとって最善の幸せを願う
      ② 私にとってもそれが幸せであればなお良い

      ですが、「相手にとって最善の幸せを願う」って言いながら、本当は人に傷つけられたくないから、単に自己を消失させているのかもしれない。「いやいや私なんて…どうぞどうぞ」って、利害がぶつかった時に自分の形を凹ませているだけで、Win-Winの関係じゃないから長く続かないよね。

      だから、

      ① 私にとっての幸せとは何かをまず考え、実行する
      ② それが相手にとっても幸せな状態だとなお良い

      の方が良いのではないか、と。そもそもリプレイサブルな存在じゃないんだよ。私にとって、私は。

      「私はあなたと一緒にいたい、一緒に仕事がしたい」は、確かに相手を束縛する呪詛の側面を持つのでしょう。でもそのことばには「あなたに幸せになってもらいたいと思っている人がここにいるよ」という祝詞としての側面もある。「私」はスタンドアローンな存在ではなく、相手によって「私」は形を変えている。だからこそ「私」が言葉を発することに意味がある。

      哲学者アランは「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という名句を残しています。起こり得る事象からの逆算では予悔(よかい)ばかりが増えていきますが、ことばが現実を作り出す力を侮ってはならないと思います。自分を、自分を含めた周囲を予祝することばを、徐々に増やしていかなければなりません。それが期待値の低い事象だったとしても、です。

      人を愛する、って自己変容なんでしょうね。傷つくべきときにその状況を理解しようとするのではなく、時間を使い、傷つかなければならなかった。受け止める自己を、少しずつ育てていきたいと思います。今、無いからね。

      こんな私ですが、現に生きていけるだけの仕事をいただき、人間関係に恵まれていること(相談できる相手がいたり、いっときとはいえ一緒に過ごしたパートナーがいたこと)は、幸せな人生だと感じているところです。「あなたはかけがえのない存在だ」と言ってくれる人をもっと大切にしたいし、自分もそう伝えていきたいと思っています。

      「てきとー付記」が認知行動療法のセルフケア版と化していますが、それでも読んでいただける人がいるのは幸せなことだなぁ、と思いつつ、今日はこのへんで。

      ではまたー!

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