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なれのはて(粂田剛監督作品)と、「共助」のない国に住む私たち。

たまたまなのだが、近所のカフェにコーヒーを飲みに行ったら店のオーナー(久保田さん)に「いいタイミングに来るねぇ。これから映画上映するから観ない?」

と声をかけられ、急遽、午後から映画を観ることになった。

監督の粂田剛さん(左)と、ちゃんちき堂の久保田哲さん(右)
 

だから内容はまったく分からず、久保田さんが言うなら間違いないだろうと、それだけで観ることにした映画である。自分の伺った日がオーナーのいる日で、しかも映画上映をする日で、その映画監督が来ていると言われれば「観るのが宿命なんじゃないか」と私でなくとも錯覚してしまうだろう。

ちなみに、その場に居た久保田さんの奥さんからは「今日たまたま遠藤さんの話をしていて、(半年前にプレゼントした手荒れに効くハンドクリームを思い出したらしい)そしたら遠藤さん来たからビックリした」と言われた。

私が宿命を錯覚したそのタイミングで目の前の人にも宿命を感じさせてしまうなんて、今日が1年のなかでもそう何度もない素敵な日であることを確信したのだった。

未来の未知性に敬意を抱くものはいずれ「宿命」に出会う。未来を既知の図面に従わせようとするものは決して「宿命」には出会わない。真に自由な人間だけが宿命に出会うことができる。

» 未来の未知性について – 内田樹の研究室

 
内田樹先生もそうおっしゃられている。「真に自由な人間」とは、”自分の未来についての開放度”が高い人間、すなわち、無数の未来のうち、何が現実となっても「来たるべき」ものとして受け入れることのできる人間なのだ。

上映前に挨拶する監督の粂田剛さん

私にとって、「なれのはて」はそうした「宿命」として出会った映画である。

私が映画を観ながら真っ先に思い出したものは、実父だ。父は警視庁の白バイ隊員だったが、物心ついた時には居なかった。高卒で入庁後、苦労して夜間大学を卒業した苦労人だったらしい。でも、父は警察官を突如辞めてしまった。もちろん収入は激減し、母に愛想を尽かされた父は、家を出ていった。

居なくなって30年が経った。私のなかには写真にうつる父の姿と、幼いときに夢の中でみた父のパジャマ姿が脳裏に刻まれているが、「今頃、どうしているんだろう」と、今でさえ、1年に何度か頭をよぎることがある。

中高生の時、通学電車の中で、父に似たサラリーマンと目が合うことが幾度となくあった。今考えれば、たぶん父ではなかったのだろう。当時は「何処か遠くから自分を見守ってくれているるのかもしれない」と思っていたし、今でもインターネットを通じて、私の名前を検索し、私の所在を追っているのかもしれない、と思うことが時々ある。私の名字は何度も変わっているので、その可能性は限りなく低いけれど。

次に思い出したものは、幼少期に通っていた公文式のセキネ先生だ。

2歳から公文式に通わされたお陰で、幼稚園のうちに四則演算、基本的な漢字は習得できていた。その公文式のおばあちゃん先生、セキネ先生は、あたたかいカーペットで居眠りを繰り返す私に、母のように優しく接してくれた。アパートの一室にあったその教室は、セキネ先生の自宅でもあった。教室の奥に続く小さな部屋で、独りで暮らしていた。

自分は幼稚園で公文式を辞めたが、その教室は、自分が中学生の頃まで看板がかかっていたように思う。中高生の頃によく乗っていたローカル線で、セキネ先生を何度か見かけることがあった。けれども幼稚園児の頃とはまるで違う私にセキネ先生は気づくことはなく、私も声をかけることはなかった。

正確に言えば、声をかけることが、できなくなっていた。徐々に背が丸くなり、スーパーの買い物袋を持ちながら前かがみに歩く先生の後ろ姿を、駅のホームで見つめていた。そして、いつしか先生を見かけることも、なくなっていた。

私達は、誰かを見送り、誰かに見送られて、一生を送る。その一方で、私達は、誰かを見放し、誰かに見放されて、一生を送る。できることなら、前者の関係性のほうが気持ちがいい。でも悲しいかな、後者の関係性が多いのが、私のこれまでの人生なのだ。

私達は何を恐れて、多くの人と容易に縁を切ってしまうのだろうか。お互い恩義を感じている人に対して、罪悪感を抱えながらも、なぜ縁が切れてしまうのだろうか。仕方がなくそうなってしまった人間関係がある一方、自身の努力で繋ぐことができた人間関係もあったはずなのに。日本との縁が切れた「なれのはて」の登場人物は、私にとって全く他人事ではなく、貧困街に暮らす彼らは十分に「私自身の変容態」であった。

映画上映された「おうめシネマ」(青梅市)


 
「フィリピンのスラム街が『なれのはて』なら、私が生きているのは『何処』だと言うのか。」

これが、映画を観た時の正直な感想である。まさか「中心」でもあるまいし、「なれのはて」に近い「辺境」だとしたら、いっそのこと「なれのはて」のほうが楽しそうでもある。そういえば、以前読んだ「『その日暮らし』の人類学」に、こんな記載があったのを思い出した。
 

人間はみなLiving for Todayである。主流派社会はLiving for Todayの世界に囲まれ、主流派社会には至るところにLiving for Todayを喚起する陥没があり、Living for Todayの輩が巣食っているのである。繰り返すが、人間はみなLiving for Todayである。いつ誰が陥没を生み出し、いつ誰が巣食う住人になるかはわからない。その不安や焦りが、主流派社会を駆動している。主流派社会はLiving for Todayを恐れている。その恐れは社会システムのためなのか、自己の実存のためなのか、それさえもわからずに恐れているのである。

小川 さやか. 「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~

 
この本は、主に貧困地域などで行われているインフォーマルセクター(informal sector:行政の指導の下で行われていない、非合法なものを含む経済活動)についてまとめたものだが、「なれのはて」に映し出される世界こそが「Living for Today」なのだと気がついた。私達は、失職したり、重病に罹患したり、老いたり、犯罪に巻き込まれたりすることで、容易にインフォーマルセクターに身を置かざるを得ない状況に置かれる。

私達の生きる日本では「その日暮らし」は、「する」という選択肢として用意されているわけではない。特定の人がそう「せざるを得ないもの」という社会的な合意が存在する。つまり、インフォーマルセクターの拡大は、税収だの治安だの社会秩序の面で国民が困るので、そうした人々は「逮捕」とか「保護」とか「入院」とか「年金」とか、いろんな形式をもって行政に一旦繋がれることになる。「Living for Today」という生存形態は基本的に許されていないのだ。

逆に「フィリピン」では、「Living for Today」という形は、少なくとも貧困街ではメインの生き方と言えるのかもしれない。行政によって救いの手が差し伸べられなければ、何としてでも自分で、そしてみんなで助け合って生きていくしかないからだ。「公助」があるけど「共助」のない日本の都市と、「公助」がないけど「共助」はある貧困街。「Living for Today」を選択せざるを得ない人々のなかに、「公助」にたどり着く前に縁が次々と切れていく環境よりも、まずは隣人が助けてくれる環境を生息地として選ぶ人がいたとしても、何ら不思議ではない。ましてや「公助」を受けられる可能性が低いとなれば、だ。
 

タンザニアの都市民の仕事に対する姿勢や態度は、生存の危機感のうえに成立している。生き馬の目を抜く中国に挑戦する姿勢にも、ある種のサバイバル意識が通底している。だが、「前へ前へ」の生き方は、危機に直面した不透明な世界でみずからを見失っている状態を意味しない。むしろ、ままならない他人や状況にゆだねるからこそ得られる喜びや苦しみがあり、それでも生きているという自身に誇りを、自分を生かしている社会的なものに確信を持っているように思われる。

小川 さやか. 「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~

映画のなかの貧困街で暮らしている人が幾分幸せに見えるのは、「それでも生きている」という「誇り」や、「自分を生かしている」のだ、という社会に対する「確信」を、私たちの社会では決して手に入れることが出来ないからかもしれない。

自分が死ぬ直前「社会に生かされてきた人生だった」と思える社会に、私も身を置きたいと素直に思った。

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この記事を書いた人

遠藤 諒のアバター 遠藤 諒 行政書士

【遠藤行政書士・街づくり支援事務所】の行政書士です。仕事を通じて「地域を誇りに思える街づくり」に携わっていきます。

建設業許可・産業廃棄物収集運搬業許可、各種補助金申請、街づくり関係(NPO設立、運営相談)を主な守備範囲としています。

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