こんばんは。多摩川行政書士事務所の遠藤です。
最近は雨続き&気圧の上下が激しく、ロキソニンのお世話になる日が多いのですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?私は、というと、行政書士以外の業務が少しずつ増えてきまして(?)いいのやら悪いのやらですが、それなりに忙しい日々を過ごしています。
最近、とある会社の社長とお話する機会があったのですが、「どんな人と出会うかで人生が変わる」と言っていたのが印象的でしたね。その台詞自体は何十回と耳にしましたが、経験に裏付けされた言葉には重みがあります。
行政書士もそうですがフリーランスって、自由な身じゃないですか。人と関わる時はサービスとお金のトレードになるだけで、互いの弱点を補強しあうような(互いを必要とする)経験って会社員より少ないと思うんですよね。組織外の人間だから。
そうすると人間関係はだんだん希薄になっていく。人との「出会い」と呼べるものが、あまり増えないような気がするんです。(初対面の人数だけは増えていく)
私が行政書士業務外での人間関係に時間を割きたい理由が、たぶん「出会い」なんでしょうね。

ジミー大西さんも、「運」と「出会い」と「技術」が大事、とおっしゃっておられる。
「技術」も大事だけど、技術は陳腐化するし、やっぱり「出会い」だよなぁ、と。半生を振り返っても、出会いが自分の人生を作っていると言っても過言ではない。
それにこれは持論なんですが(そして内田樹さんの受け売りなんですが)、技術って、自分のために使うと目減りしていくんですよね。
天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。
他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。長く生きてきてそのことがわかった。
技術は、金銭と等価交換しないような場所でこそ磨かれていくと思うんです。
それは行政書士業務についても言えること。
私の大学の同僚の島﨑徹さんは少年の頃カナダに渡り、ダンスのレッスンを受けながら、レストランで皿洗いのバイトをしていた。そのとき、島﨑少年は独創的な皿洗いシステムを思いついて、それを提案して、受け容れられた。それから何十年か経って、世界的なダンサーになった後、島﨑さんはかつて働いていたそのストランを訪れてみたことがあった。ふと厨房を覗いてみると、人々は「島﨑システム」で皿を洗っていた。
佳話である。
このとき、島﨑さんにとって、皿洗いの経験は、その言葉の本来の意味において、労働になったのだと私は思う。ある仕事が数十年経って、「労働になる」ということがありうるのである。その人がなしとげたことの意味は、仕事そのものではなく、それが他者に何を贈ったかで決まるからである。
島崎さんは皿洗いを通じて見知らぬ人々に(効率的で気分のよい皿洗いシステム)という「贈り物」をした。その「贈り物」を現に享受している人々がカナダの一隅に現に存在している。その事実によって、少年時代の労働は(当時受け取った賃金の他に)いくばくかの価値を加算されたのである。
「もうちょっと報酬額を上げれば良かったなぁ」と思う時は、たぶんその値付けで合ってるんですよね。自分の労力をすべてお金に変換しちゃいけない。そして、求められていたことだけに応えていたのでは、件数をこなしたところで技術は向上していかない。
ということで、
「出会い」と「技術」の向上を追い求めていくと、「お金にならないかもしれないけど、自分の能力を提供できそうな業務外の活動」に自然と行き着いてしまうのが私の人生。
もしかしたら、小さなプロジェクトチームの末席として、参加させてもらうことになるかもしれません、という報告でした。やるからには、どうにかお金を生み出していきたいけどね!
ではまたー!

