ロシアがウクライナに全面侵攻して、1ヶ月が経過した。
日々ニュースやTwitterで流れてくる映像や情報は、戦争を経験していない多くの日本人に、戦争や安全保障に対する考え方を大きく変えるほどの衝撃をもって受け止められている。
平成生まれの私にとっての「戦争」とは、アフガニスタン戦争やイラク戦争である。どうしようもないテロ集団や独裁者が敵対する民族や自国の民を苦しめていて、それを見かねたアメリカ等の大国が武力介入して解放する、というイメージだ。
しかしどちらの戦争も、良い結末はもたらさなかった。アフガニスタン戦争は20年続いたあげく、タリバンが再びアフガニスタンを統治することになったし、イラクには「戦争を始める論拠」である大量破壊兵器はなかった。戦争をしたことで何かが解決したわけでもなく、ただただ、住んでいる国民と兵士が犠牲になっただけだった。
戦争なんて始めるべきではない。たとえ「合理的な理由」があったとしても。
この考えは、この2つの戦争を通じて、世界中の多くの国民に共有されたと思う。
ただ、私たちは常に「戦争を始める側」にいるわけではない。「戦争を仕掛けられる側」にもいることを、ウクライナ軍事侵攻で嫌というほど実感したのである。力を持たない部族や個人は、容赦なく殺され、レイプされ、蹂躙される。シリアやパレスチナでも問題になっていたことが、ウクライナでも起こってしまった。
ところで、ウクライナ侵攻が始まってしばらくして、「政治的妥協をすべき」という言葉がTwitterで散見されるようになった。「これ以上戦っても犠牲者が増えるだけだから、手打ちをすべき」ということのようだった。ウクライナをいくら軍事支援しようとも犠牲者が増え続けることを踏まえ、「現実的な解決策を探るべき」と、自分こそが<現実>主義者であるとした。
彼らの主張はもっとものように見えるが、ウクライナ政府が政治交渉を通じ着地点を模索しているのは誰の目にも明らかであり、私の目にはNATOもアメリカもむやみにロシアに軍事的圧力をかけているようには見られなかった。
彼らのいう「政治的妥協」とは何のことを言っているのだろうか。「喧嘩両成敗」ということで、ウクライナに更なる犠牲を求めるということなのだろうか。ジャイアンから殴られ続けているのび太に「戦ってないで、財布くらいくれてやれよ」と言っているようなものである。<現実>主義者は、財布をとられたのび太が、次に何をとられるかは考えていないように思えるし、攻める側(強者)が必ず得をする構図を作り出せば、第2、第3のジャイアンが誕生するように思えてならない。彼らは現実主義者の皮を被った、個人や一部の犠牲を厭わないただの全体主義者である。
もし戦争当事国でない私たちが議論をするならば、「ジャイアンをどう説得するか」であり、「のび太にどう加勢するか」についてである。それは軍事的なものかもしれないし、経済的なものかもしれないし、人道的なものかもしれない。「財布くらいくれてやれよ」では決してない。私たちがサポートできる何かについて、話し合う必要がある。
私たちがウクライナ侵攻から学ぶべきことは、「戦争を仕掛けられる側」になった時に、どのように振る舞うべきなのか、そして「戦争を仕掛けられた側」と、どう連帯できるのか、ということなのである。「戦争は外交の失敗」だったとしても、ウクライナが責められる状況にはない。
この現実を前に、現行憲法堅持の立場であり、自衛隊の存在を消極的に支持していた私でさえ、はっきりと「軍隊」もしくは「軍隊」に準ずる組織の必要性を認識することになった。「平穏無事な生活を享受していること」が微妙なパワーバランスによって成り立っていることを改めて理解し、自衛隊存立および国防のための法整備や、場合によっては憲法改正すらも必要かもしれない、と思うに至った。いままで漠然とそこにあるもの、と思っていた「国」が実は儚いものであり、容易に失われるものなのだと気付かされたのだ。
国という共同幻想は「どこかのおえらいさん」の決め事に端を発するのかもしれないが、主権者である我々国民一人ひとりが生みだす意識が集合し、積み重なって、少しずつ現実感を増してゆくものなのだと思う。共同幻想であったとしても属する国を失った国民は、家や社会保障制度といった物理的なものだけではなく、その心の拠りどころをも失う。だからこそ、今の人類にとって、「国」や「故郷」が無くなるようなことがあってはならない。
一刻も早くこの争いが集結し、ウクライナとロシアの人々が平穏無事な生活を送れるようになることを、心より願っている。